大河ドラマ 八重の桜 考察 第一回 池田屋事件

大河ドラマ 八重の桜 考察 第一回 池田屋事件

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今年NHKで放送されている大河ドラマ『八重の桜
歴史好きの僕も毎週楽しんで視聴しています♪

当ブログではこの八重の桜に関することを書こうと思いますが、感想は多くの方が書いていますので、
僕は放送された回に描かれた歴史的事件の紹介・考察を書いていくことにします。

どうぞよろしくお願いします!

それでは、今回の考察は第10話『池田屋事件』より池田屋事件です。


八重の桜 考察 第一回 池田屋事件

 池田屋事件は、幕末の1864(元治元年)6月5日に、京都三条木屋町(三条小橋)の旅館・池田屋に潜伏していた長州藩・土佐藩などの尊王攘夷派志士を、京都守護職配下の新選組が襲撃した事件です。
池田屋事変池田屋騒動ともいわれ、近藤勇は書面で洛陽動乱と書いています。

◎テロ計画
 1864年(元治元年)京都 
 幕末の京都は政局の中心地となり、尊王攘夷の政治思想を持つ諸藩の浪士が潜伏して活動していました。
 長州藩は会津藩と薩摩藩による宮中クーデターである八月十八日の政変で失脚し、朝廷では幕府が推し進める公武合体派が主流となっていきます。
 尊王攘夷派は勢力挽回を試みており、京都守護職・松平容保新選組に市内の警備や捜索を命じさせます。

 5月下旬、新選組は山崎烝・島田魁らによって四条小橋上ル真町で炭薪商を経営する枡屋(古高俊太郎)の存在を突き止めます。升屋を調べると、中から武器や長州藩との書簡等が出てきました。
 古高を捕らえた新選組は、拷問により古高を自白させます。
 その内容は、
 「祇園祭の前の風の強い日を狙って御所に火を放ち、その混乱に乗じて中川宮朝彦親王を幽閉し、一橋慶喜・松平容保らを暗殺し、孝明天皇を長州へ連れ去る」
 という大規模なテロ計画でした!
 さらに探索によって、長州藩・土佐藩・肥後藩等の尊王派が古高逮捕をうけてテロ計画の実行・中止について協議する会合が池田屋か四国屋に於いて行われる事を突き止めます。

 
◎突入せよ!池田屋事件

 そして運命の7月8日・・・
 午後10時頃、捜索の末に近藤隊10人は池田屋でついに謀議中の尊攘派志士(20数人)を発見します。
 近藤隊は近藤勇・沖田総司・永倉新八・藤堂平助の4人が突入し(残り6人は池田屋の周囲を固めた)、真夜中の戦闘となりました!
 激闘が展開されますが、戦闘中に沖田が病に倒れ戦線離脱。また藤堂も汗で鉢金がずれたところに太刀を浴びせられ、額を斬られ血液が目に入り戦線離脱してしまいます。
 襲撃を受けた尊攘派の宮部鼎蔵らは応戦しつつ、現場からの脱出をはかります。
 裏口を守っていた新選組隊士・安藤早太郎・奥沢栄助・新田革左衛門達のところに土佐脱藩の望月亀弥太ら浪士が脱出しようと必死で斬りこみ逃亡。この戦闘で奥沢は死亡し、安藤・新田も1ヶ月後に死亡しました。望月は負傷しつつも長州藩邸付近まで逃げ延びますが、最後は自刃して果てました。

 新選組側は沖田らの戦線離脱で、近藤・永倉の2人だけで戦う事態になりますが、土方隊(約20人)の到着により形成が逆転、結果9人討ち取り4人捕縛の戦果を上げました。
 会津藩の応援は『八重の桜』の通り戦闘後に到着しました。土方は手柄を横取りされないように、会津藩士を一歩たりとも近づけさせなかったという逸話がありますので、『八重の桜』のように、戦闘直後に池田屋に会津藩士である山本覚馬が入って宮部鼎蔵との悲しい「再会」はフィクションだと思います。
 
 この戦闘で数名の尊攘派志士は一旦は逃走に成功しますが、結局翌朝の市中掃討で20余名を捕縛されました。なおこの市中掃討の際も戦闘となり、会津藩は5人も死者を出してしまいます。
 翌日7月7日の正午、新選組は壬生村の屯所に凱旋しました。この時沿道は見物人であふれていたといいます。

 長州藩士のリーダー・桂小五郎(後の木戸孝允)は、会合への到着が早すぎたので、一旦池田屋を出て対馬藩邸で大島友之允と談話していたため、難を逃れました。談話中に外の騒ぎで異変に気付いた小五郎は、現場に駆けつけようとしますが大島に制止されたため思い留まったと明治時代に回想しています(小五郎の回想録『桂小五郎京都変動ノ際動静』より)
 ただし、京都留守居役であった乃美織江は手記に
 「桂小五郎は池田屋から屋根伝いに対馬藩邸まで逃走した
 と書き残していますが・・・。

◎戦いが終わって・・・

 御所焼き討ちの計画を未然に防ぐ事に成功した新選組の名は天下にとどろきました。
 逆に尊攘派は吉田稔麿・北添佶摩・宮部鼎蔵・大高又次郎・石川潤次郎・杉山松助・松田重助らの逸材が戦死し、大打撃を受けます。
 この事件をきっかけに激高した長州藩は挙兵・上洛し、7月19日に禁門(蛤御門)の変を引き起こしまいます。

 よく池田屋事件により逸材たちが落命し明治維新が1年遅れたとも、逆に尊攘派を刺激してしまい維新を早めたとも言われます。
 自分が敬愛する歴史作家の司馬遼太郎先生は、
「この事件がなかったら薩長土肥主力の明治維新は永遠にこなかった」
 と解釈しています。

 僕は維新を早めたと考えてます。
 池田屋事件で仲間を殺されて、維新志士を怒らせ本気で倒幕に向かうようになったのではないでしょうか?

 
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